キリスト教は「粗食」か

先日テレビで「介護されたくないなら粗食はやめなさい」という説があることを紹介していました。どうやら講談社の「介護されたくないなら粗食はやめなさい」<ピンピンコロリの栄養学>の宣伝だったようです。人間、年を取るほど外から栄養を補わなくてはならないのだ、という考え方で、粗食をやめてどんどん肉を食べましょう、という話だったのですが、放送の間は「なるほどそうなのか」と納得して、高齢者は肉食をしたほうがいいのだな、と思って見ていたのですが、本当にその通りなのでしょうか。

そもそも、「粗食」とは何でしょうか、今時は浮浪者であっても、恥さえかなぐり捨てればレストランの裏口あたりで結構いいものを食べることができるようです。戦中戦後の食糧事情が逼迫していた時代などであれば「粗食」ということもあったでしょうが、現代日本で「粗食」ということがあるのでしょうか、大げさなんじゃないでしょうか、ひょっとしたら食肉業界に糸を引かれて踊ってるだけなんじゃないの、などという妄想さえ出てきます(笑。

この説は、年寄りは肉を食べないと栄養失調になって要介護状態になってしまうよ、と言っているわけです。しかし、肉を食べないでも豆類などからたんぱく質は摂取することができますし、油分も肉からしか摂れないわけではありません。たとえばオリーブオイルは100%植物性のオイルですよね。禅寺の雲水を見て御覧なさい。彼らもたまには羽目を外すことがあるかもしれませんが、基本的には肉食は全くしません。毎日精進料理です。実家が京都の上京でしたので、妙心寺、相国寺、大徳寺の雲水がよく家の近くに托鉢に回ってきました。雨下駄のような歯の高い下駄を履いていたせいもあるでしょうが、どの雲水も見上げるような筋骨隆々とした大男というような印象がありました。肉を食べなくても、大豆や胡麻から十分な栄養やたんぱく質を摂取できるのだ、ということのいわば見本だと思います。雲水が老後は必ず介護されているということも聞いたことがありません。禅寺の坊主は年取っても元気です。今や本当に「粗食」と言えるものは、野菜が不足している食事のことだと言った方がいいのではないでしょうか。菜食中心にして肉類を避けることは「粗食」とは言えないのです。

「介護されたくないなら粗食はやめなさい」という本の著者は、年を取れば取るほど栄養に気をつけて食事をしましょう、ということを言いたいのでしょうが、だからと言ってどんどん肉を食べろということは短絡に過ぎないのではないでしょうか。

前置きが長くなりましたが、キリスト教でいう「罪」も同じことです。淫欲の目で婦女を見ることは死に値する重罪である、その考え自体には美しいものがあります。しかし、だからと言って、性的な考えが頭に浮かぶ度に罪の意識に苛まれてしまうのでは正常に生活できません。自分のことだけならまだしも、他人を評価する計りになってしまうのでは全くの本末転倒といわざるを得ません。実際、そういう人が多いのはご承知の通りでしょう。

どのような根から重大な犯罪が育まれるのかを教育することは大切なことですが、その言葉の一つ一つに引っかかっていては前に進むことができません。年寄りになればなるほど体に摂取しやすい栄養の取り方を意識する必要がある、それは重要なことですが、だからと言って即肉食、と結びつけるのは早合点だということと同じです。

キリスト教のいわゆる「律法」や「罪」ということは、ローマ帝国の法整備のために生まれてきたものなのであって、キリスト教自体が具体的な法そのものであったと言えるのです。わが国には既に法律が整備されているのですから、更にキリスト教のような機関、思想は不必要です。実際、この説明に尽きると思います。キリスト教は古びた過去のプロトタイプの一つに過ぎないのです。そんなものを持ち出していじくりまわすのでおかしくなってしまうわけです。

キリスト教は正しい精神性を育むことができない「粗食」というよりは「悪食」でしかありません。



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改革・長老教会とパイプオルガン

ジュネーブ詩篇歌という教会音楽があることをご存知でしょうか、Wikiの説明にあるように、宗教改革者ジャン・カルヴァンの下で作成された、聖書の詩篇による韻律詩篇の賛美歌集です。

ところで、プロテスタントに「改革教会」という名称を持つ教会がありますが、「改革教会」の「改革」とはジャン・カルヴァンによる「宗教改革」の「改革」です。マルティン・ルターがカトリック教会の礼拝様式をそのまま受け継いだのに対してジャン・カルヴァンは様式を一新しました。特に教会音楽については、オルガンや多声部合唱を排して、無伴奏による単声音楽に統一したのです。それがジュネーブ詩篇歌であるというわけです。これも「改革」だということなのでしょうね。

しかるに、現代日本におけるジャン・カルヴァンの子孫である改革・長老教会の現状はどうなのでしょうか、見てみますと、どの教会も立派なパイプオルガンが設置されていることを宣伝しています。「改革派の堅い伝統に立つために」とはどのような意味なのでしょうか、カルヴァンは、教会音楽が無伴奏、単声で歌われることが宗教改革だと言ったのに、実際にはストップの数の多さ、パイプの本数、筐体や鍵盤の材質のよさを競って立派なパイプオルガンが設置されていることを自慢しています。


日本キリスト教会大阪西教会(長老教会)のオルガン

日本キリスト教会大阪西教会(長老教会)のオルガン


その他、改革・長老教会に設置されているオルガン
http://www.hakodateaioi.jp/docs/about.htm
http://www.cc9.ne.jp/~tochigi-church/
http://www7.ocn.ne.jp/~church/
http://www.warp.or.jp/~ashiya/annai.html
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/inagekaigan-chur/organ-preparation.html
http://www.christiantoday.co.jp/article/673.html

実際、これではカルヴァンの宗教改革の精神に立脚しているとは言えないでしょうね。本願寺の阿弥陀堂で観音経を誦するような、相国寺の禅堂に密壇を組んで雲水が灌頂を受けているような違和感があります。ジュネーブ詩篇歌は、カルヴィンの宗教観そのものだったわけですから。

しかしオルガンを排して単声部のつまらない賛美歌だけにしてしまっては信者が集まらない、今いる信者だって逃げていってしまうかもしれない。まあ、そうなのかもしれませんが、それでは宗教ではなくて政治家が代々地盤看板を受け継ぐのと同じことですよね。

親に政治の才能があったからといって息子もそうだとは限りません。いくら親父の声色やしゃべり方を上手に真似て見せても芸人じゃないんだから物まねは評価されません。親父の言い出したことが自分の代になってひっくり返されそうになったらべそをかきながらイヤイヤをして手を離してしまう、そんなじゃただの駄々っ子です。政治家や宗教家の高い志なんていうものは一代限りか、せいぜい二代目程度までにしか受け継がれないということです。あとは集金システムを守るために、精神性としては空っぽの状態が惰性で引き継がれているだけだというのが現状なのでしょう。

はたから見ているだけでも恥ずかしくなってしまいます。「宗教改革の伝統」が少しずつ欠落してついには無に帰してしまう日も近いでしょう。早いうちにカトリックか聖公会にでも鞍替えしておいたほうが手っ取り早く素人受けして集客効果も挙がるんじゃないでしょうか。

聞くところによりますと、設置するだけして弾ける人がいないから結局電子オルガンをピコピコ弾いてジュネーブ詩篇歌よりもっと詰まらない賛美歌になってしまってるとか、素人に無理やり弾かせて壊してしまって、結局パイプオルガンを高価な壁の飾りにしてしまってるとか、まあ贅沢なお金の使い方です(笑。

バプテスト牧師と中華汁そばの関係について

ゴールデンウィークですね。久しぶりにこれと言った用事もなく9日間のんびりとできます。

今回は拙ブログの常連論客のお一人、巨大虎猫氏のコメント中でお知らせいただいた、あるバプテスト教会のサイト中の記事について考えてみたいと思います。

進化論によれば、宇宙は混沌とした状態から、次第に形を整え、秩序が増し、
生命が生じて、今日まで進化してきたと言う。
果たして、本当に下等なものから高等なものへと、自然に進化するのでしょうか?


この人、「春日井恵みキリスト教会の長谷川幹伸牧師」は聖書を読んだことがあるのでしょうか、宇宙が混沌から秩序を生成された結果だということは聖書の一行目に書いてあることです。確認しましょう。

創世記1:1
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。


聖書によれば、神の業は、下等なものを高等なものへと変化させることだと言うことができるわけです。それを仮に「進化」というのであれば、進化そのものが神の業によるものだと理解することができます。

こういう読み方をすることが「聖書を読み解く」ということでしょう。聖書に書いてある通りというのであれば、その「意味」つまり表面上の単語の解釈ではなくて、底辺に流れる精神性を汲み取らなければならないわけです。

たとえば、イブはアダムの骨から作られたのだから、女は男に隷属するべき存在だ、というような読み方は「単語の解釈」でしか読めない能無しの読み方です。進化論否定にしても同様です。進化論が絶対正しいとは言えないことは知っていますが、だからといって、聖書を定規にして科学を否定するのであれば、地動説否定の過ちを繰り返すだけのことでしょう。

話は変わりますが、中華汁そば、右手でお箸を持って、左手にはレンゲを持って両手で食べる人、みたことありませんか、僕は香港と台湾のことしか知らないのですが、確かに、本場では都会部の人も田舎のひとも、汁そばを食べるときは左手にレンゲを持って食べます。なぜかと言いますと、台湾にも大陸にも、「物をすすって食べる」という習慣がないので箸だけで汁そばを食べることができないからです。無理にすすって食べようとするとむせてしまいます。それで、箸で麺をレンゲに乗せてからでないと食べられないという必要があるからそうするのです。

見た目やエチケットでやっているわけではないわけです。人間、食に関することで実質的理由なしに守っていることなんて一つも無いと思います。熱いそばを冷ますために、と思っている人もいるようですが、逆です。熱い料理を冷めないうちに口へ入れるための工夫がレンゲなのです。温度を下げるためであれば、小皿に取って食べればよろしいわけです。また、汁があちこちに飛ばないようにやっていると思っている人もいるようですが、おそらく、すするよりもレンゲを使うほうが汁が飛ぶ可能性は高まるでしょう。中国料理を食べるときは、テーブルもテーブルクロスも食器の一部です。多少汁が飛んでクロスや横の人の着物が汚れるぐらい平気です。汚れた手をクロスの端っこで拭いてもマナー違反ではありません。

中にはレンゲを持つのが面倒で、箸だけで汁そばを食べるおじさんもいますが、それでもすすることができる人は少ないですので、ほとんどの場合は持ち上げた麺を下から口に入れています。おわかりでしょうか、今度中国の食べ物のロケ番組でもやっていたら注意してご覧になってみて下さい。

日本にはもともと熱い蕎麦をすすって食べる文化があるのですから、左手のレンゲは不必要なのです。必要ないのに華僑の猿真似をして何のために持つのか意味を理解しないままレンゲを持つものだから、箸で持ち上げた麺をレンゲの裏に押付けてスープを搾り取って、結局そのまま箸で食べたりしています。見ていて笑ってしまいそうになります。

それに、日本人が両手にものを持って食べていると、どうも右手に飯茶碗、左手に味噌汁椀を持って口から食べているような下品な印象を受けます。日本人は箸だけで熱い汁そばを食べたほうが行儀よく食べることができるのですから、別にわざわざ不慣れなレンゲを持つ必要はないのです。

おわかりいただけたでしょうか、重要なことは「スタイルを守ること」「周囲に同調すること」ではありません。どのように考え、どのように行動すれば自然でうまく行く方向を見出せるのか、自分で努力して考えなくてはいけませんよ、ということです。そうすればキリスト教といえどもいま少しはマシに回り始めて、多少は社会の役にも立てるではないかと思いますが、

まあおそらくは無理でしょう(笑。


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追記:2012/05/05

結局、汁そばの中国式での食べ方はどうなのか、というご質問をいただきました。ちゃんと説明しているつもりなのですが、わかりにくかったでしょうか、

中国式の汁そばの食べ方は、

○まず、箸で麺や具などをレンゲに乗せます。
○レンゲにスープを入れます
○レンゲを口に運んでレンゲに乗っているものとスープを同時に食べます。(このとき箸はつかいません)
○大きな野菜やお肉などは直接箸で食べます。

つまり汁そばの場合、箸の役目は、主に麺や具をレンゲに乗せることです。日本人の場合、左手にレンゲを持ちながら、特に何に使うでもなく、結局箸で食べているので、それはおかしいだろ、なんでレンゲ持ってるんだよ、ということになるわけですね。

以上、つまらないことを長々と説明しまして申し訳ございません。

イスカリオテのユダ

「裏切り者」と呼ばれているユダ、この人物に関する疑問については、キリスト教批判において定番の話題ですね。すなわち、なぜユダは断罪されたのか、ということです。本ブログでもこの疑問について少し考えてみたいと思います。

まずはユダが断罪される場面

マルコによる福音14:21
人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。

ヨハネによる福音13:25
その弟子がイエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パンを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。

当時、ユダヤでは食事は寝そべって行うのが普通だったらしいです。寝そべった状態で「胸もとに寄りかかったまま」ということは、抱擁し合った状態で、ということになります。不自然ですね。情事かと思うほどですが、実際は、ユダヤの習慣から遠ざかっていた外国生まれのユダヤ人が書いた文章なのでそんなことになっているわけです。実際にあったことが淡々と写生されているわけではないという事実がよくわかる箇所の一つです。

それはさておき、聖書には、この世には、少なくとも一人、神から「生まれなかったほうがよかったのに」と蔑まれた人間がいた、と述べられています。このユダという人物、銀貨30枚で自分の先生を売り払ったわけですが、その後どうなったのでしょうか、

マタイによる福音27:3
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

イエス様は罪と許しについてどう解説したのでしょうか、確認してみましょう。

マタイによる福音18:21
「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか、七回までですか。」イエスは言われた「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」

つまり、限りなく赦しなさいと言っているわけです。しかし実際には、イエス様は自分自身に対して罪を犯そうとしたユダを赦さなかった。ユダに対する次の言葉

ヨハネによる福音書13:27
「しようとしていることを今すぐしなさい」

イエス様は、そんなことは詰まらないことなんだから、やめなさい。みんなでがんばって人とともに良い生き方を模索していこう、良い世の中になるようにがんばろうじゃないか、とは言わず、「しようとしていることを今すぐしなさい」、つまり「死ね」と言って、怨嗟による報復を実行しました。これがキリスト教の理想とする神なのです。

果たして、ユダはマタイによる福音27:3にあるとおり、後悔に苛まれ、報償を突き返して自死してしまいました。罪を悔やんだのです。イエス様は、ユダが自分を裏切って銀30枚で売り渡してしまうことを承知していたのですから、その後後悔して悩むことを知らなかったはずがありません。承知の上で「それをやれ」と唆したということになります。七の七十倍赦すどころか、「生まれてこなければよかったのに」と罵った上、ことさら死ぬように仕向けています。つまり、聖書は、神が側近の失敗さえカバーすることができない能無しだと告発しているわけです。

福音書が著作された当時の周囲の流行宗教で使用されていたテキストから主たるパターン(神は身内に裏切られて殺される)を取り入れたのでこのような矛盾が生じているわけなのですが、実際には、福音書には神が人に報復する様子を描写している箇所があることになります。

また、こうも言っています。

マタイによる福音12:31
人が犯す罪や冒涜は、どんなものであっても赦されるが、"霊"に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らうものは、この世でも後の世でも赦されることがない。

「キリスト教は愛の教え」だと考えている人がいますが、実際には全く違います。確かに、イエス様は「七の七十倍までも赦しなさい」と言っていて、無限の慈しみを与えることがキリスト教の教えだと表現しているように見えますが、その一方でイスカリオテのユダを「生まれなかったほうがよかったのに」と言って断罪し、彼を死に至らしめているわけです。

キリスト教の神は、一人の人間を私怨によって処刑して地獄に突き落とした、これが事実です。

「聖霊に言い逆らう」ということが何を指すのかは実に曖昧ですが、これは非常に便利な発言だと言えるでしょう。何でもかんでも全て赦されるのだと言い切ってしまうと断罪の余地が無くなってしまい、政治的には不便ですが、赦されないことが無くは無い、と明言しておくことで、「それは聖霊に言い逆らうことになるから赦されない」と定義して裁くことができるからです。

イスカリオテのユダという「救いようの無い悪人」を想定して描写し、反省しても救わずに断罪して殺してしまう、キリスト教とはそのような宗教なのです。



プロフィール

クッキングホイル

Author:クッキングホイル
私はかつて伝統的教派のキリスト教会で洗礼を受け入信し25年間在籍しましたがやめました。聖書を熟読すればするほど唯一の真理などでは無いことに気づくようになったからです。

キリスト教は死後の恐怖を用いて人を洗脳する悪質な思想団体だという事実を、一人でも多くの人に伝えることができるようにと願っています。

コメントは承認制にさせていただいています。コメンテーターの皆様にはご不便をおかけしますが、どうかご了承下さい。

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